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フクシマ現地調査随行記 ~ 深まる「先の見えない苦しみ」と住宅街のイノシシ ~
11月3日、公害弁連などが取り組んだ「フクシマ現地調査」に参加させてもらった。
朝、いわき市役所前で調査のマイクロバスに拾ってもらい、国道6号線を北上し、富岡町の帰還困難地区の手前まで行き、いわきに引き返すルート。北上するにつれて町や村、畑の様相が大きく変化するのが印象的であった。
まずはいわき市の北部に位置する四倉・道の駅から久ノ浜。このあたりは津波の大きな被害にあった地域。私たちのバスが走る国道6号線で海からの津波が止められて、国道の山側は被害を受けずに済んだという。北上する道路の右と左で全く景色が異なる。津波は7波わたって押し寄せ、第2波が最も大きかったとか。その為、第1波が引いてやれやれと家に戻りかけた多くの人々が犠牲になったという。被害から2年7ヶ月を経て、被害の跡はすさまじいものがある。しかし現在被害建物のほとんどは撤去され、更地にとして整理されてきている。
いわき市から広野町に入る。20キロ~30キロ圏内で全町民が避難した町。避難準備区域が解消され「避難解除地域」になった地域。役場も避難先のいわき市から戻り、小中学校も再開したが、未だ事故時の人口5400人の内、約2割しか戻っておらず、小中学生も、いわき市の仮設住宅からバスで通学しているという。
北隣の楢葉町との境(20キロ地点)に「Jヴィレッジ」という、東電が原発造設を早く認めてほしいと福島県に贈った、130億円を投じた東洋一を誇るサッカー練習場等のスポーツ施設があったが、ここは今や、事故収束に働く労働者達の終集結場になっている。第一原発に作業に行った人たちは、作業場からのバスをここで乗り換えなければならないという。第一原発の作業場に行った車両は、ここより外には行けないとか。ビレッジの裏側は、除染による汚染物を詰めた、例の黒い袋が3段に積み上げられ、累々と拡がる集積場になっていた。最近になって作ったという塀に囲われて外からは見にくくなっていた。
広野町から楢葉町に入っていくと北上するにつれて、次第に人影が見えず人々の生活のにおいが薄くなっていく。楢葉町は「警戒区域」が解除されて「避難指示解除準備地域」となった地域。泊まることは出来ないが、日中の出入りは可能になった、除染作業の地域である。集落と広々とした元田・畑が拡がる。除染作業の進んでいる場所は、畑や田んぼにはなっていなくても、それなりに畦と畑らしい形が見て取れるが、北上するに連れて、一面のセイタカアワダチソウとススキの群生地で、畦なども跡形も見えない。
楢葉町では600年以上続く古刹、宝鏡寺に寄せて頂く。第30代住職の早川篤雄さんは、40年来原発反対運動に取り組んでこられたが、事故に遭い、現在はいわき市に避難しておられる。宝鏡寺も除染した(住まいから20メートルの範囲までが除染される)直後は線量が下がったものの、すぐ元に戻ってしまったという。山が除染されていないのだから、当然である。裏の山に山桜をたくさん植えていて、老後は、春の花、秋の紅葉を楽しんで孫と過ごす日を夢見ていたが全てダメになったと、話しておられた。早川さんは、事故後、率先してお寺の田んぼを汚染物の仮置き場に提供しておられる。
宝鏡寺で、もう一人避難者の方のお話を伺った。同じく楢葉町の金井直子さん。昨年4月の第一回「『原発と人権』全国研究・交流集会in福島」の全体集会で、被害者市民の一人としてご報告を頂いた方である。「先の見えない苦しみ」に耐えながらがんばっておられる報告が印象的であった(ご参考「法と民主主義」2012年8/9合併号)。今回あれから1年半を経過してお話を伺って、未だに何時帰ることが出来るか見通しも立たず、「先の見えない苦しみ」が更に更に重くのしかかっていることが感じられて、改めて避難している住民被害者の置かれている状況の厳しさの一端を思わされた。住まいも、事故から2年半以上を経過して、多くの家がネズミなどのすみかになっていて、戻っても到底住めそうにない状態になっているという。
更に北上して富岡町に入る。全市が「警戒区域」から、この3月に、3分割され、富岡駅周辺など、一部が「避難準備区域」や、「居住制限区域」となった。途中マイクロバスを降りて、富岡駅までかつての商店街を歩く。家の座敷の中に乗用車がひっくり返って収まっている。津波で流されて家の中に入ってしまい、そのままになっているのだ。駅の隣の3階建ての建物は左半分だけがひしゃげて潰れたままになっている。富岡駅の駅舎は流され、ホームと線路が草に埋もれていた。ここは、地震と津波で破壊されたまま全く人の手を入れることも出来ないままに放置され、2年半を越える月日だけが過ぎているのだ。
更に北上して桜の花見道路で有名な「夜の森」方向へ向かう。マイクロバスが住宅街を通過中、「ア!イノシシだ!」の声に慌てて前方を見ると、確かにイノシシが道路を横切って、左側の住宅の庭に入っていくところであった。一瞬のことだったが、逆光で黒く見えるイノシシのシルエットが思った以上に大きく見えた。このあたりは、「イノシシが出る。イノシシと飼育されていた豚が交配してイノブタが生まれ、野生化している」との説明が事前にあったが、まさにお話の通り、住宅地の中を闊歩しているのだ。
夜の森地区の「帰還困難区域」の手前で道は封鎖されており、ここから引き返す。このあたりは、道路の左側は「帰還困難区域」で住宅はバリケードで封鎖されている。右側は昼間の立ち入りは可能とされていてバリケードが撤去されており、左側と対照的ではあるものの、人影もなく荒れ果てている。バスで通過中も、線量計は小数点以下から数マイクロシーベルトの範囲をめまぐるしく変化した。通過している場所、バスの中での位置等で大きく変わるようである。「空間線量モニターはあらゆる方向からの放射線を拾うが、個人線量計は首からかると背後から被曝した放射線が減衰する。結果として線量が低く出る。」そして、原子力規制委員会は、住民の帰還目安となる被曝線量について、この個人線量計を採用する方向で合意したというのが、11月13日の東京新聞(朝刊)の記事である。
「東京に帰ったら、こうした福島の有様を是非周りの人々に伝えてほしい」と、今回案内をして下さった佐藤さんが強調された。原発被害の質的な、そして量的な深刻さをリアルに垣間見させて頂いた調査だった。
海部幸造(日民協)
2013/11/28(木) 11:34
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まずはいわき市の北部に位置する四倉・道の駅から久ノ浜。このあたりは津波の大きな被害にあった地域。私たちのバスが走る国道6号線で海からの津波が止められて、国道の山側は被害を受けずに済んだという。北上する道路の右と左で全く景色が異なる。津波は7波わたって押し寄せ、第2波が最も大きかったとか。その為、第1波が引いてやれやれと家に戻りかけた多くの人々が犠牲になったという。被害から2年7ヶ月を経て、被害の跡はすさまじいものがある。しかし現在被害建物のほとんどは撤去され、更地にとして整理されてきている。
いわき市から広野町に入る。20キロ~30キロ圏内で全町民が避難した町。避難準備区域が解消され「避難解除地域」になった地域。役場も避難先のいわき市から戻り、小中学校も再開したが、未だ事故時の人口5400人の内、約2割しか戻っておらず、小中学生も、いわき市の仮設住宅からバスで通学しているという。
北隣の楢葉町との境(20キロ地点)に「Jヴィレッジ」という、東電が原発造設を早く認めてほしいと福島県に贈った、130億円を投じた東洋一を誇るサッカー練習場等のスポーツ施設があったが、ここは今や、事故収束に働く労働者達の終集結場になっている。第一原発に作業に行った人たちは、作業場からのバスをここで乗り換えなければならないという。第一原発の作業場に行った車両は、ここより外には行けないとか。ビレッジの裏側は、除染による汚染物を詰めた、例の黒い袋が3段に積み上げられ、累々と拡がる集積場になっていた。最近になって作ったという塀に囲われて外からは見にくくなっていた。
広野町から楢葉町に入っていくと北上するにつれて、次第に人影が見えず人々の生活のにおいが薄くなっていく。楢葉町は「警戒区域」が解除されて「避難指示解除準備地域」となった地域。泊まることは出来ないが、日中の出入りは可能になった、除染作業の地域である。集落と広々とした元田・畑が拡がる。除染作業の進んでいる場所は、畑や田んぼにはなっていなくても、それなりに畦と畑らしい形が見て取れるが、北上するに連れて、一面のセイタカアワダチソウとススキの群生地で、畦なども跡形も見えない。
楢葉町では600年以上続く古刹、宝鏡寺に寄せて頂く。第30代住職の早川篤雄さんは、40年来原発反対運動に取り組んでこられたが、事故に遭い、現在はいわき市に避難しておられる。宝鏡寺も除染した(住まいから20メートルの範囲までが除染される)直後は線量が下がったものの、すぐ元に戻ってしまったという。山が除染されていないのだから、当然である。裏の山に山桜をたくさん植えていて、老後は、春の花、秋の紅葉を楽しんで孫と過ごす日を夢見ていたが全てダメになったと、話しておられた。早川さんは、事故後、率先してお寺の田んぼを汚染物の仮置き場に提供しておられる。
宝鏡寺で、もう一人避難者の方のお話を伺った。同じく楢葉町の金井直子さん。昨年4月の第一回「『原発と人権』全国研究・交流集会in福島」の全体集会で、被害者市民の一人としてご報告を頂いた方である。「先の見えない苦しみ」に耐えながらがんばっておられる報告が印象的であった(ご参考「法と民主主義」2012年8/9合併号)。今回あれから1年半を経過してお話を伺って、未だに何時帰ることが出来るか見通しも立たず、「先の見えない苦しみ」が更に更に重くのしかかっていることが感じられて、改めて避難している住民被害者の置かれている状況の厳しさの一端を思わされた。住まいも、事故から2年半以上を経過して、多くの家がネズミなどのすみかになっていて、戻っても到底住めそうにない状態になっているという。
更に北上して富岡町に入る。全市が「警戒区域」から、この3月に、3分割され、富岡駅周辺など、一部が「避難準備区域」や、「居住制限区域」となった。途中マイクロバスを降りて、富岡駅までかつての商店街を歩く。家の座敷の中に乗用車がひっくり返って収まっている。津波で流されて家の中に入ってしまい、そのままになっているのだ。駅の隣の3階建ての建物は左半分だけがひしゃげて潰れたままになっている。富岡駅の駅舎は流され、ホームと線路が草に埋もれていた。ここは、地震と津波で破壊されたまま全く人の手を入れることも出来ないままに放置され、2年半を越える月日だけが過ぎているのだ。
更に北上して桜の花見道路で有名な「夜の森」方向へ向かう。マイクロバスが住宅街を通過中、「ア!イノシシだ!」の声に慌てて前方を見ると、確かにイノシシが道路を横切って、左側の住宅の庭に入っていくところであった。一瞬のことだったが、逆光で黒く見えるイノシシのシルエットが思った以上に大きく見えた。このあたりは、「イノシシが出る。イノシシと飼育されていた豚が交配してイノブタが生まれ、野生化している」との説明が事前にあったが、まさにお話の通り、住宅地の中を闊歩しているのだ。
夜の森地区の「帰還困難区域」の手前で道は封鎖されており、ここから引き返す。このあたりは、道路の左側は「帰還困難区域」で住宅はバリケードで封鎖されている。右側は昼間の立ち入りは可能とされていてバリケードが撤去されており、左側と対照的ではあるものの、人影もなく荒れ果てている。バスで通過中も、線量計は小数点以下から数マイクロシーベルトの範囲をめまぐるしく変化した。通過している場所、バスの中での位置等で大きく変わるようである。「空間線量モニターはあらゆる方向からの放射線を拾うが、個人線量計は首からかると背後から被曝した放射線が減衰する。結果として線量が低く出る。」そして、原子力規制委員会は、住民の帰還目安となる被曝線量について、この個人線量計を採用する方向で合意したというのが、11月13日の東京新聞(朝刊)の記事である。
「東京に帰ったら、こうした福島の有様を是非周りの人々に伝えてほしい」と、今回案内をして下さった佐藤さんが強調された。原発被害の質的な、そして量的な深刻さをリアルに垣間見させて頂いた調査だった。